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古典芸能はある意味、経済効率が非常によく考えられた作品群です。ストーリーが極めてシンプルで具体性が薄い。見る人によってどういうふうにもとれるので、イマジネーションで遊ぶことができる。だからこそ不況・好況に関わらず生き抜いてきたんだと思います。もちろんその中に何百年もかけてつくりあげられた知恵がある。我々が本質的な部分を映す鏡に徹し、見に来た人が自分を投影することで、多少なりともフィードバックできることはあると思います。イマジネーションの訓練にもなるでしょう。 古典芸能が限られた人のものではなく、皆のものであるというイメージづくりが必要なことは明らかです。私はそのためにいろいろなことをやってきたつもりです。狂言を演劇のひとつとして、他のジャンルと変わりなく見てもらいたいということが、劇場で狂言をやっているコンセプトのひとつでもあります。見知らぬ人が閉ざされた空間で何かやっていると思われるのではなく、門戸を開いていくことが、能楽界の課題だと思います。 |
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流れも変わってきているようです。今は歌謡曲も洋モノより日本のモノがヒットし、映画も邦画が好調です。今の若い人たちは古典芸能だからダメだとは思わないのではないでしょうか。その点で、私が子ども番組をやっているのは一種の先行投資です。(笑)
私たちより上の世代は高度成長の頃で、西洋文化の吸収に必死でアンチ日本でしたから、古典芸能の公演に興味を持ちにくかったのかもしれません。
そのような人たちが劇場に来やすくなるという観点で、大阪ナイトカルチャーが推進する開演時間の繰り下げも良い試みだと思います。
ただ、開演時間を遅らせるだけでなく、劇場への交通手段や周辺飲食店の開店時間と連携しないといけない。そのあたりを考えずにつくった地方の公共団体のホールで、運営がうまくいっていない例はたくさんあります。
例えば演劇というのはひとつの集合社会のシミュレーションです。学校でひとつの演劇をすると、目立つ子が役者をやって、頭のいい子が本を書いて、絵のうまい子が絵を描く。その過程で世の中にはいろんなことが総合的にからみあっているんだということが学べます。
劇場のために街があるわけではないけれども、劇場ひとつをつくるにも、劇場自体を魅力的にするのはもちろんのこと、交通手段などを総合的にシミュレーションしてつくらないといけないのです。 |
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